日本医科大学スキー部

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スキー部の歴史

昭和38年(1963年) 鴇田典夫、大関正知、渡部英之、浜本紘、八木聰明等(昭和44年卒)の先輩方がスキー同好会を発足。
同好会有志で第1回合宿を白馬八方尾根の栂池で行う。スキー部昇格を目指し、実績を創ろうとの事で、同年の冬、鳴子で行われた東日本医科学生スキー大会に鴇田典夫と大関正知の両先輩が滑降にエントリーした。
昭和41年(1966年) 同好会から部への昇格。

この際の経緯、詳細は大関正知先輩の「日本医科大学スキー部創部顛末記」に詳しい。

我がスキー部が発足した頃、つまり半世紀前、さらにそれ以前のスキーはどんなであったであろうか?

この時代を思い起こし、これを我々の原点として、その後を辿り現在に至る試みは、古いOB達にとってはそれぞれのノスタルジアであり、若いOBや現役の学生にとっては我がスキー部が未来に続く、あるいは進化する礎となるに違いない。 スキーと言うスポーツには長い歴史と文化があることを知ってほしい。 医学部のスキー部がどのような歴史を刻んでゆくか、すべては今の積み重ねであろう。スキー部での一日一日が、医師としての基礎、品格、熟成に何らかの意味を持つものであってほしい。

スキー列車と言うのがあった。車内はスキー客で常に満員であった。客の荷物は殆どが四角いスキーザックで、両脇に大きなポケットがありこれにスキー靴を一足ずつ入れていた。 スキーはと言うと、座席上の網棚からストックを通路方向に差し出し、網棚には先のザックを重しとして置き、この2本のストックを支えに板を数本縦方向に置いた。 座席はリクライニングのないボックスシートで左右両脇からスキーがせり出していた。座席の無いスキー客は通路に新聞紙を敷き、床に座り込んでいた。 子供たちは大抵が座席の通路側席を譲って貰って、3人掛け、手すりから通路に足を投げ出し、チョコン座らせてもらえた。 近くのスキー客とのお菓子のやり取りも普通であった。途中の駅で降りる場合は全員が助け合い、ほとんどは窓から降りた。もちろん荷物も、スキーもである。正に家族列車の様相であった

このころのスキー板はもちろん木製、子供達の憧れはエッジの付いたものであった。 上級者や競技者はヒッコリーという外材で、オーストリアのケスレー、クナイスルが有名であった。 日本製では西沢、井村、小賀坂などであったか? 当時スキー技術はオーストリア派とフランス派に二分されていた。 オーストリアスキーは常に上半身は谷を向いて滑った。これに対し、フランススキーはターンに際し、谷側の手を振り込む方法で、現在のスキーに近かったと思う。 競技スキーにおいても、スラロームのポールをくぐる(倒すではない)時のシルエットは全く違っていた。

1990年代末にカービングスキーが登場する。これによりスキーそのものが大きく変化した。スラロームのポールも可倒式となり、ショルダーブロックはなくなり、逆手でポールを倒し、より小回りで高速のターンが可能となった。 それまでの常識は非常識となり、動きも荷重もスタイルも一変した。

ストックは単なる竹から竹を合わせた合竹性となった。リングはこれも大きな輪っかの竹から、年々小さくなっていった。 靴は、最初はゴム、次に皮、そして今のプラスティックとなって行くが、スキー部創設の頃は、まだ大半が革製であり、競技用にダブルというのが登場する。まずインナーの紐を締め、次に外をまた強固に丈夫な紐で占めた。濡れると1,5倍位の重さになった。紐に変わり、バックルが登場した時、最初は半信半疑であった。やがて鉄人28号の足の様なブーツが登場する。以後様々なメーカーが背の高い、足首の前傾を固定した現在のブーツに繋がっていく。これで後ろに転ぶ確率が格段に減った。が、押しなべてスキーヤーの腹筋、体幹が弱くなったかも知れない。 ビンディングは最初はカンダハー、すぐにラグリーメンとなった。マーカーというメーカーがセフティービンディングを発売するまで、2メーター近い革紐で足を板にくくり付けていたのである。 50年前の創部の時期に急速にスキーの安全性は進化した。

さて、当スキー部が活躍し始めた頃、スラロームの板でも2メーターもしくは2メーター5センチであった。 当時のヒーローはフランスのジャン・クロード・キリー、レジェンドはオーストリアのトニー・ザイラー、(いずれもアルペン三冠王)日本の伝説のレジェンドは猪谷千春氏・(1956年オリンピック・イタリアのコルチナダンペッツオで銀メダル)であろうか。 当時より我々の目標は、東日本と関東医科学生スキー選手権大会であった。これに備えて冬のシーズンのみならず、陸上トレーニング、春季、夏季合宿を行なっていた。春夏の合宿ではおよそ雪のあるところ、滑れるところは全て行ったであろう。

乗鞍、鳥海山、立山(劔沢・雷鳥沢)、月山、八甲田等々。

スキー部の創設期、スキーは人気スポーツであり、1972年(昭和48年)に札幌オリンピックが開催された。1987年(昭和62年)、映画『私をスキーに連れてって』が公開され、スキーブームは加速して行った。1998年(平成10年)長野オリンピックが開催される。この頃が日本のスキーブームの絶頂期であったであろうか。リフトやゴンドラには長蛇の列ができたものである。

現在のゲレンデはスキーヤーよりスノーボードの方が断然多い。一時期はスキー専用ゲレンデも多数存在したが、現在は数えるほどしかない。そんな近年日本のスキーの歴史の中で、幾多の困難を乗り越え、我がスキー部は確実に50年を超えて存在し続けているのである。その時代その時代で、150名近くの仲間たちが、厳しい合宿やトレーニング、関東・東日本医科学生大会へ参加し、タイムを競った。負傷や事故などの多くのトラブルも経験した。大会の主管という難題を克服した世代も、部員数が減ってスキー部の存続が危ぶまれる次期もあった。 しかし、今振り返って思うことは、多くの仲間たちが、日本医科大学の学生として、スキー部に入部し、そのほとんどの部員たちが、スキー部を通じて、それぞれの学生時代を謳歌したことは間違いないと思うのである。 歴史とは過去の事象の記録、文化を辿ることでもあるが、我がスキー部の歴史は、人の継続・人脈を現在までに止まらず、未来を含めて辿り続けて行くものであってほしいと思う。 久しぶりに部歌を口ずさんだ。

文責 S47卒花輪峰夫、(2020年9月24日記)

日本医科大学スキー部 資料

8ミリ動画「関東医学部スキー大会」

   

スキー部部歌「雪国の想い出」

雪国の想い出 楽しかったひととき
君と語り 君と歩いた あの白い道
銀色にかがやく あの山々
雪国の想い出 楽しかったひととき
僕らは集い 僕らは歌う 雪国の想い出

楽譜はこちら(PDF)  

日本医科大学スキー部 歴代主将

氏名 卒業年度
創部者 鴇田 典夫 昭和44年
第2代 大関 正知 昭和44年
第3代 川島 信二 昭和46年
第4代 花輪 峰夫 昭和47年
第5代 飛田 義信 昭和48年
第6代 野崎 昭 昭和50年
第7代 江尻 一成 昭和50年
第8代 城下 裕 昭和51年
第9代 黒田 賢二 昭和52年
第10代 小島 直志 昭和53年
第11代 佐々木 健志 昭和54年
第12代 丸木 雄一 昭和55年
第13代 大矢 徹 昭和56年
第14代 下川 晶 昭和57年
第15代 田中 昌彦 昭和58年
第16代 保坂 純朗 昭和61年
第17代 中西 一浩 昭和61年
第18代 竹田 晋浩 昭和61年
第19-20代 保坂 純朗 昭和61年
中西 一浩 昭和61年
竹田 晋浩 昭和61年
第21代 岸 泰宏 平成1年
第22代 深井 靖雄 平成1年
第23代 武田 泰 平成3年
第24代 飯澤 典茂 平成3年
第25代 清水 亨 平成4年
第26代 笠神 康平 平成5年
第27代 土屋 喜一 平成6年
第28代 鈴木 恵一郎 平成7年
第29代 桑野 雄介 平成8年
第30代 松田 亮 平成9年
第31代 石田 良太 平成10年
第32代 幸田 修典 平成11年
第33代 伊藤 大起 平成13年
第34代 椎葉 真人 平成14年
第35代 椎葉 真人 平成14年
第36代 豊川 優 平成15年
第37代 梅澤 裕己 平成16年
大田 智大 平成18年
第38代 藤森 啓太 平成19年
第39代 関根 鉄朗 平成18年
第40代 佐竹 義彦 平成19年
第41代 佐藤 幸一 平成24年
第42代 加藤 匡人 平成22年
第43代 加藤 匡人 平成22年
第44代 加藤 匡人 平成22年
第45代 武田 幸人 平成26年
第46代 古谷 正幸 平成26年
第47代 井上 正章 平成27年
第48代 井上 正章 平成28年
第49代 井上 正章 平成29年
第50代 井上 正章 平成30年
第51代 村瀬 裕也 令和1年
第52代 岡崎 史弥 令和2年
第53代 小幡 篤史 令和3年
第54代 新垣 祐香 令和4年(予定)
第55代 宇都出 鷹 令和5年(予定)

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